はじめに

 木津小学校は、令和6年度で152年を迎えます。地域の人々の努力によって開校し、地域の皆様に見守られ、たくさんの卒業生を送り出してきた木津小学校です。
 152年…語り尽くせないほどの歴史があることは言うまでもありませんが、それぞれの時代の流れのなかで、本校にはどのような出来事があったのでしょう。創立152周年を迎えるこの機会に、皆様と一緒にその歴史の扉を開いてみましょう。
 本校には、開校当時から現在に至るまで、歴代の校長が記録し続けてきた『学校沿革史』全8巻が保管されています。そこからは、それぞれの時代に木津小学校で学んだ子どもたちの、また、地域の方々の息吹が伝わってきます。
 そのいくつかを、ご紹介します。

学校沿革史のこと

 沿革史を記すことを明言したのは、第13代校長 松田安之輔氏です。木津小学校が開校してから35年後、明治40年のことでした。沿革史第1編には、開校時からの出来事が事細かに記されていますが、35年間の記録を聞き取りにより起こしていくのは、容易なことではなかったと推測されます。
 「諸言」の最後にあるように、『学校沿革史』は、それから後(もちろん今も)、校長の手によって綴られています。ちなみに現在の遠藤順子校長は、第48代校長です。  

学校沿革史

諸言
開校のこと

 「邑(むら)に不学の戸なく 家に不学の人なからしめんことを期す」(明治5年8月『学制』公布)
 木津小学校は、明治5年2月ごろから開設の準備が進められ、学制が公布される前に開校式が行われています。当地方でいち早く開校された学校です。
 開校の日、入学したのは男子128名、女子86名、合わせて214名であったそうです。入費不足に悩んでいた当地域では、開校を迎えるにあたり、しばしば会合が開かれ、費用の捻出について話し合われたようです。会合には、薬王寺や伝福寺、正覚寺などの寺院が利用されました。
 文明開化の歩みの中で、木津小学校は、まさに地域の方々の手により誕生したのです。

鹿背山分校の開校は・・・
 木津小学校には、市坂・鹿背山・梅谷の3つの分教場がありました。そのうち市坂分教場は、明治26年に廃校になっています。
 鹿背山分教場が開校したのは、明治28年5月11日のことです。開校当時から、第2学年以下の児童がここで学びました。
 明治30年には、鹿背山区民により校舎を新築し、木津校に寄付されています。沿革史には明治13年にすでに学校があったことが記されていますので、開校までに何らかの学校が鹿背山にあったことが考えられます。

〈校舎について〉
 沿革史には、「校舎は…某寺院を購入して…小寺村の村会所を買入れ…」と記録されています。
 「某寺院」とは、元興福寺知足坊のことです。この建物は、格式が高く、職員室に充てられたということです。
 また、「小寺村の村会所」として使われていた小寺村妙福寺が校舎として利用されました。この寺院は、廃仏毀釈の流れを受けて、1870年廃寺となり、建物が木津小学校に転用されました。

〈教師について〉
沿革史にあるように、創立当時は3名の教師が京都府より任命されています。寺子屋の師匠として、すでに地域の教育にたずさわっていました。
 句読師の澤井石芸氏は、木津小学校初代校長です。 

大和行幸

 明治10年2月10日、明治天皇は奈良畝傍山御陵への行幸に際し、木津小学校で小休されています。(他文書には8日という記録もある。)
 木津小学校沿革史には、三條実美、木戸孝允、伊藤博文が従者として同行した記録があり、教科書にも載っている歴史上の人物が木津小学校に立ち寄られたという事実に、感動を覚えます。

 大和行幸の行程は、次のようでした。

 京都御所→伏見→宇治(泊)→玉水→木津小学校→奈良東大寺(泊)→畝傍山御陵へ

 御小休所は、木津小学校の職員室が使用されました。この建物は、元興福寺知足坊の建物で、格式高い建て方であったということで選ばれました。
 この時使用された備品(花瓶・火鉢・水桶・紫檀卓)は、昭和12年当時、木津小に保存されていたということです。

 御小休所に小学校を選んだ地域の方々の、木津小に対する思いが伝わってくるようです。